この秋は文学的にセットリストを構築したい。夏の終わりごろ、そう掲げていました。その時に思いえがいていたセットリストとは違う形になりましたが、なんとなくその方向性が見えてきたところです。
なぜ「文学的」なのか。
それは、長谷川きよしさんの「月夜の浜辺」という曲と出会ったから。中原中也の詩「月夜の浜辺」に、長谷川きよしさんが曲をつけたものです。
小学校の教科書にも載る詩なので、どこかで目に触れていたのかもしれません。中也がいう「ボタン」とは何を意味しているのか。なぜ、浜辺なのか。そう、想像していくと、世界が広がって楽しかった。
この楽しさをライブに取り入れたいと思い、秋のセットリストとして試行錯誤がはじまったわけです。
その模索をしている時に、知り合ったのが詩人服部剛さんでした。
9月のひしょうライブの時に、はじめてお会いして、今回が2度目になります。今はSNSがありますから、その方の素性や生き様なんかを簡単に知る事が出来る。
便利な世の中でもあるし、夢のない世の中でもある(笑)
彼が詩人であること。朗読活動を行っていること。そして、詩集の著作物があることを知りました。
今回のひしょうでは、彼の朗読が聴ける。そこで冒頭に上げた「秋のセットリスト」が出てくるわけです。
服部さんが朗読を行う同じステージで、私たちも「月夜の浜辺」を演奏したい。出来れば冒頭に詩の朗読からやりたいと。
演奏の出来不出来は良いとして、気持ちよく演奏することが出来ました。
自分らが思い描いていた世界をどこまで表現できたかわかりませんが、ちょっとは「文学的」な匂いぐらいは発することが出来たかなと自負しております。
そして、その服部さんの朗読。そこに、私が伴奏として参加するというね(笑)
詩に伴奏をつける。それはとても難しいが、その難しさも楽しい。服部さんは「セッション」という言葉を使っていたけど、まさにセッションでした。
事前に詩の雰囲気を聞き、そこからメジャーでいこうか、マイナーでいこうか。選択し自分の中にあるフレーズを弾く。
詩の中にある言葉には、リズムがあります。そのリズムを感じ、音を奏でる。詩がいつ終わるのか。そこも問題で、きれいに着地は出来ないにしても、しっかりと詩と共に音も完結させたい。
場所がゴールデン街の「ひしょう」である。そこで詩の朗読とアコギでの伴奏。平成が終わろうとしている中、昭和の時代にタイムスリップしたような時間でした。
とても良い経験をさせてもらった。
帰宅後、服部さんの詩集を拝読させていただきました。生で聴いた詩とはちがい、活字になってその詩と接すると、また違った見え方がするものです。
内容については、触れることはしません。ぜひとも、手に取って読んでいただきたい。
言葉が深い。明るいようでいて重い。目に見える単語や文章の先にあるもの。行間から感じるものが重い。
単純に読むだけならば、分量的に1時間もかからないで読めると思います。しかし、私は2回にわけて読破しました。言葉が心にズンっとくる。そして、読み続けるのが辛くなる。そういう世界だった。
それが正しい反応なのかはわかりません。間違っているようにも思います。でも、子を持つ親ならば、この思いは理解していただけると思います。そういう方に読んでいただきたい。